モン島は、すこし欠けた半月を思わせる起伏のある小さな島で、六百人ほどの人間が暮らしている。大小百あまりある浪月の群島のはずれに位置しており、あまり栄えているとはいえない。
 港は湾曲する半月の内側にあり、港をみはるかすように大人ふたり分ほどの高さの女性の像が建っている。その像が女性とわかるのはその胸と尻の膨らみのためだった。桶を抱えるその腕が細いからだ。性別を明らかに示すべきその顔は失われていた。
 その像は、この島の特産品である赤い染料を煮出す女性の姿を表している。干からびさせた虫を煮詰め、三度こしてできた汁を木蝋で固めて出荷する。男たちは近隣に広がる水草の草原に小舟で漕ぎ入っては虫を集め、女たちはそれを美しい顔料に作り替える。モン島は浪月の片隅でずっとそうして暮らしてきたのだ。
 島の誇りとも象徴ともいうべき女性の頭が欠けたままなのはなぜなのか。ギカは母親に尋ねたことがある。まだ母親がはやり病を得る前で、少年の手を引いて散歩をしていた頃だった。
「白椋が」
 母親はそう言って悲しげに眉をひそめた。それだけでギカは重ねて問う気がなくなった。
 モン島を含む浪月の群島が浮かぶ大河錯江。白椋とはその大河の南側に広がる国家である。子どもだったギカも知識では知っていた。そういう国があること。その国が、彼がまだ幼く記憶が定かではない頃に、浪月に攻めこんで全島を余すところなく蹂躙したこと。
 モン島もその爪牙を逃れられなかったこと。父も母も、島の人間の誰もその時のことを話したくないこと。
 何人もの孤児を生んだこと。
 だからギカはずっと、その像の頭について問わなかった。白椋という悪魔の国がその首を奪ったのだと思っていた。だが白椋は手を引き、狂った王は玉座を追われ、彼でも名を知っているネストル王の治下ではもう浪月が脅かされることはないのだと、そう自分を納得させて問いを飲み込むことにしていた。いずれ、白椋の人々が像を美しくつくり直すのだろう。あれはモン島の誇りなのだから。ネストル王が直々に謝りに来ることだってあるかもしれない。そう思っていた。
 像を見上げる少年の背は伸びた。手を引いてくれる母親はもう焼かれて骨となり、錯江に還っていった。すべては変わり、ただ未だに像の首は戻っていなかった。
 小さなささやき声が聞こえてギカは顔を上げた。視線をめぐらせた先には五人の子どもたちがいる。一番の年長の娘でも十三才のギカと同い年で、もっとも小さな子は粗末なむつきにくるまれてその背で眠っている。
 白椋の侵略が産み出した、親を失った孤児たちだった。ギカの住む通り、一番奥にある廃屋のようなあばら屋で子どもだけで身を寄せ合って暮らしている。
 二番目に背の高い、美しい金色の髪をした子どもが残りをかばうように前に出た。顔には明らかに怯えが見えて、それがギカの嗜虐心をかすかに刺激した。年齢の割には身体の大きく強いギカにとって、こんな子どもたちをいじめることは暇つぶしにもならない簡単なことだったし、しばしばしてきたからだ。金髪の子の後ろでは、顔だけのぞかせた男の子が自分を睨みつけている。そして小さな女の子はもう泣き出しそうだった。
 ふっと虚しくなって、ギカは孤児たちに歯を剥き出し、背を向けた。今日は彼らをいじめる気にはなれなかった。
 小さな足音が近づいてきた。足音はすぐそばで止まり、ギカは振り向いた。
 一番年かさの女の子の名はチョウランという。貧しいこの島でも一番暮らしに困っている家の子だった。そして一番美しい女の子だとギカは思っていた。
「ギカ」
 チョウランとは、他の子たちを連れていないときは乱暴もせずに普通に話すことがあった。約束というほど大げさなものでもない、それでもギカの胸に刻まれている誓いもある。
「私たち、ここを出て行くの」
 ギカは目を見開いた。
「出て行くって、どこに」
 なぜ、とは問えなかった。彼らはもう、この貧しい島ですら生きていけないのだ。彼らを世話していた男が死に、この夏は寒かった。ギカの家でも小さな中庭で育てていた野菜は例年の半分も実を結ばなかったのである。正真正銘の孤児となったこの五人が生きていけないことは明らかだった。そして島の人間の誰も、それを助ける余裕がないことも明らかだったのだ。
 子どもたちは、というよりも彼らを支えるチョウランは、どこか生きていける場所を見つけなければならなかったのである。そしてそれを見つけた。それについて、自分には問う資格はないのだとギカはわかっていた。貧しさにあえぐチョウランたちに何もしなかったという意味ではギカも同じなのだから。子どもなのだから仕方ない、という言い訳はとりもなおさず苦しんでいるチョウランが自分と同い年であるという事実の前には力なく消えていくだけだ。
「いつ」
 答えはなく、ギカは質問を変えた。
「今夜、船が来るの」
 夜。人目をはばかるように。
 こみあげるものがあり、ギカは顔をそむけた。
「俺たちで、この像に首をつけようって話しただろ」
 視界の隅で金髪の子ども――イヒョウが目を見開いた。いじめっ子とやさしい姉がそういう話をしていたということを知らなかったのかもしれない。
「約束を破るのかよ」
「そう。――約束を破るの」
 チョウランは頬に血をのぼらせていた。連れている子どもたち、シュウコやリセツの頭をこづいてもチョウランは怒らなかった。ただ哀しそうな、泣きそうな顔でかばうだけだ。怒りの表情を見たのは初めてで、胸がざわめいた。
「そうよ。約束を破るのよ! 約束を守ったっていいことなんか何も無いんだから! 何が起きても我慢していなさい! そうしたら今日一日は生かしてあげる! そんな約束なんかいらないわよ!」