彼は神であり、生まれたばかりの神であり、そして今日明日にも滅びようとしている神だった。
 飢餓のために朦朧としている視界とひきかえに、嗅覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされている。その鼻は、自分の口元に突きつけられているかぐわしい食物のほかに、すぐ傍らに立ちこめる甘ったるい悪臭もとらえていた。その悪臭に対する嫌悪感だけが彼の滅びをどうにかとどめているのだ。
 彼の名はエウペモスという。それは地上にて、人界にあって使っていた名だが、神としての新しい人生を始めても名が変わった実感はない。ならばまだエウペモスと名乗ってよいのだろう。名乗るほどの舌の力も残されていなかったが。
「楽におなりよ」
 醜悪な甘い香りが揺らいで、自分の身体を何かがまさぐったような気がした。もう嗅覚と聴覚以外の感覚は半ば麻痺しているため状況はつかめない。
 昨日――神とはいえもとは人間たちなのだから当然というべきか、神界と呼ばれるこの世界でも昼夜がある――の彼ならば一喝して退けた女神だった。だが今は声を上げることすらできない。陥落は眼前にあった。
 怒りと恐怖と怨念との間に、かすかな自嘲もある。彼がとある緋侯の部将をしていた頃、兵站を気にして戦に出たことなど一度としてなかった。軍隊の本来の目的は、敵国の内部でその資源を消費しつつ存在することである。それによる経済と治安への悪影響が軍事行動の目的だと固く信じていた彼は、しばしば二千人の兵士たちに手に持てる以上の食糧を渡さずに国境の外に送り出した。もちろん兵士たちは略奪でその命を維持し、それは予定通りだったが、しばしば食料が手に入らないために進軍予定を変更した。というよりも、進軍は常に食糧の備蓄を目指して行われることが常だった。
 その兵士たちの日々の飢えの苦しみと、明日の飢えへの恐れはどれほどのものだったろう。当時は想像もしなかったそれを、人生が終わった今になって体験するとは皮肉な話だった。因果応報という言葉は確かに存在するのだ。
 それでもこの仕打ちは無残に尽きる。エウペモスはそう思わずにはいられない。
 神になるなどと、こうやって神界で目を覚ますまでわずかたりとも考えはしなかった。遠く塞の若い兵士たちの訓練の声を聞きながら、かつて失った愛しい顔を思い、満足と後悔とに包まれて死んでいくつもりだったのだ。間違っても、自分を誰かが神に祀ることなどないと思っていた。
 誰が、自分に神饌を積み上げたのか。
 誰が、神にした自分をこうして放置し、飢えの中に突き落としたのか。
 まず思い浮かぶのは自分になついていた一人の中隊長だった。金色の髪をしたその青年は、『矢を降らす者』という勇名を背負い兵役期間だけで中隊長にまで昇進するという才覚を示しながらも商人として身を立てることを望んでおり、そのためか、熟練の経理担当である自分の後ろをついて回っていた。金色の髪に白い肌、碧い瞳は南方蛮族に多い身体的特徴である。この塞に就職する前、緋侯の部将であったころが懐かしく思い出されたし、経理担当でいつもうるさいことを言い続ける緋官になつく兵士など彼だけだった。だから、ついに得られなかった子どものような愛情を抱いていたのだ。
 それを仇で返されたということなのか。
 さすがにそれは否定したかったものの、彼以外に自分の死を意識しているものなどいるはずがない。
 人は死者の恩恵にあずかろうと、神饌を積み上げて神に祀る。するとその死者は神となりここ神界で第二の人生を始めるのである。普通、神に祀られるほどの業績を残すものはほんのひとにぎりである。だからその神たちは、少なくとも自分の名声が健在のうちは神饌に不足することはなかった。神として生まれ変わり、すぐに餓えに苦しむなど自分以外にはいないことだろう。そもそも、分不相応に神になるような者が他にいないに違いない。
 今日はまだ耐えられているが、明日にはきっと口元に差し出されているほかの神の神酒を口にするだろう。そして自分は奴隷となる。今、自分の傍らに寝そべる女神たちのように。より力のある、人間たちから神饌を大量に受け取る神々の奴隷となり、いつかは醜い妖魔に姿を変えられて地上におとされ討伐されるのだ。
 それがあの若者の望んだことなのか。あるいは神饌を欠かさず積み上げるつもりだったが収入を失ったのか。彼らの行きつけの店の赤毛の娘。どこか懐かしさを感じたあの娘にずいぶんと執心だった。そのために身を持ち崩したのかもしれない。
 考えることも億劫になり、細く息を吐いた。最後の吐息が漏れたあとで手の先に重みを感じた。
 盃がそこに現れていた。若い頃愛した女の寝床で使った、土器を接いだ粗末な器だった。そこにはほんのわずか半ばほど、液体がたたえられている。
 疑問も何もなく、エウペモスはその盃を口元に運んだ。歪つなはずの土器は形を変幻し、一滴も余すことなく液体を喉の奥に流し込んだ。
 望外の奇跡だった。地上で誰かが彼のために神饌を捧げたのだ。それは彼の記憶にもっとも強く残っている盃に注がれて手のうちに現れ、彼はたった数日とはいえ生命を長らえることができた。神の食料である神酒だった。
「去れ、汚らわしい女怪ども」
 張りを取り戻した声に、そばに寝そべっていた女神たちの苛立たしげな唸り声が応えた。だがそれ以上何も言わず、女神たちは身を起こすと離れて行った。エウペモスを彼女たちの主の奴隷とする機会が去ったと知っているのだ。少なくとも今は。
 遠ざかる足音と笑い声を聞きながら、エウペモスはぐったりと目を閉じた。今日は下僕に堕ちずに済んだ。だが、明日も神饌がもたらされる保証はない。何しろ彼は生きているのがやっとであり、生者にご利益を与えるなどできないからだ。彼に神饌を捧げた物好きが誰かは知らない。だが人間たちはご利益を求めて食料を備えるのだから、その期待に答えられないエウペモスのことは早晩見放すに決まっていた。
 状況は何も良くなってはいない。だが破滅は一日二日と先延ばしにすることができた。今はそれだけで満足するべきだろう。長い年月を戦陣で過ごしていた彼は、時を待つ以外にできることがない状況もあることを熟知している。もちろん待った結果がよくなることなどほとんどないことも知っていた。