菜種油を鍋に引き入れたところで、一階から伸びる伝声管が高い声を響かせた。
「アデルさん! 紫候が帰ります!」
 アデルは前掛けを外すと油で汚れた指をぬぐい、そばの台に置いた。料理人とは客商売である。客は別に料理人の言葉を求めてはいないが、感謝と賛辞は与えたいと思っている勝手な生き物なのだ。上得意であれば厨房を出て階段を降りるのは当然のことだ。
 厨房への階段を隠すように並べられた植木の脇から目当ての卓を眺める。会計を待つ客は三人、それぞれ満足したように背もたれに体重を預けていた。
 うちの二人は座りながらにして衆を圧する巨大な男である。二人とも重い銀髪だったが片方は巻き毛、片方はまっすぐに肩口まで垂らしていた。この二人には見覚えがない。最後の小柄な一人はこのあたりでは見かけない金色の髪である。白椋の南方地方に住む蛮族に多く、本人も南方の商家出身だと言っていた。彼は店の常連だった。
 巨人の一人、巻き毛の男がふと卓上の料理に手を伸ばした。食事を終えたには似つかわしくなく、卓上には料理がまるごと残された皿が三つある。そのうちの一つから野菜を摘んだのだった。そして口に含むと満足したように皿の脇に木片を並べた。
 三人は同時にアデルに気づいたようだった。彼女は優雅に腰をかがめると、その卓へと歩いて行った。目は自然と手をつけられていない三つの皿へと吸い寄せられる。
「素晴らしい料理でした。ゼバの言うとおりだ」
 巻き毛の男が微笑みながら言った。
「ありがとうございます、紫候さま」
 その言葉で男の顔に苦笑がひらめいた。
「私はまだ嗣です。候ではない。それに今日は紫鵬家の人間としてではなく第三塞の兵士としてきています。お気遣いはご無用」
 目もとは優しかった。紫候、紫嗣といったらアデルたち平民にとっては一生会話をせず終わる確率のほうが高いような相手だが、どうやら物語の中で見るような嫌味な権力志向者ではないようだ。少し気が楽になり卓上を見渡した。人間のために注文したものは全て平らげられている。世辞ではなく、本当に気に入ってもらえたようだ。
「祖神も嘉したもうたようです。私が普段塞で作るものはどうにも不評で。祖神のためにもこれからはたびたびお邪魔しますよ」
 彼は貴族であり、同時にこの地方を守備する塞の司令官でもある。無言で二人の会話を見守っている金髪の男から話は聞いていたが、彼と年齢は同じだという話だった。つまり自分より一つ年下のはずだったが、巨大な身体と落ち着いた表情ものごしは年長者に思えた。
大隊長であっても自分で食事を作られるんですか」
「時間がないときは食料庫から補給食を盗んだりして済ませますが、基本的に兵士は自炊です。それは大隊長であっても変わりません」
「お家の料理ですか?」
 アデルは好奇心にかられた。見知らぬ料理の術があるのならば学びたくなるのは料理人の本性である。母親から学んだ南方の味、この街にやってきて学んだ白椋西部と国境を越えた奥東の味はすべて自分なりに咀嚼して客に出せる水準まで身につけている。その彼女が貴族の味にそそられないはずがない。
 期待に反して若い貴族は苦笑した。
「いいえ。家では料理は妻たちの役目です。ああ、つまり、父の妻たちの。男は饌房に足を踏み入れることはできません。私が学んだのは軍営と野営の料理です。もっともよい生徒ではありませんでしたが」
「むずかしくて?」
「いいえ。私は粗食を常とするように教育されています。美味を知るのは必要ですが、溺れることの決してないようにと」
 言葉の意味がわからず、アデルは首をかしげた。貴族は大作りの顔に、どこか得意げな、どこか困ったような苦笑を浮かべただけだった。
 貴族が立ち去ったあとには二人の同席者が残った。うちの一人には見覚えがある。この店によく来ていた相手だから。たいていは一人だったが、二人のこともあった。
「ごちそうさまでした、アデルさん」
 金髪の男はゼバという。立ち上がって小さく頷いた彼を見て、しかしまだ座っているかのような錯覚がアデルを襲った。それほどに先ほどの貴族の背は高かった。そして、いままだ着席して物珍しそうに自分を見つめているもう一人の兵士も貴族に劣らない巨大な体格だった。
 ゼバは男にしても背の高い法ではない。そして残りの二人は標準をはるかに超えて雄大な体躯をしていた。
「あなたは本当に紫候のお気に入りだったのね」
「彼はまだ嗣だよ。言ったとおり。それに僕はお気に入りじゃない。たまたま休みがあったから、食事を案内させられただけだ」
「つれないことを言うな。紫鵬嗣は君と友人になりたいのだよ」
 もう一人座っていた大男が口を挟んだ。明るい銀髪は素直に肩口まで流れ、太い首の線を隠している。そのためか、その巨大さにも関わらず華奢な印象を受けた。はっとするほど整った目鼻に、長いまつげのせいもあるだろうか。
「馬鹿な事を言わないでくれ。貴族と庶民が友人になんかなれるわけないだろう」
「おや? では私とも友だちになれないと?」
「君が候家を継いだらそうなるよ。地位の差は大きくて、そしてわざわざ苦労して埋めるほどのないものだ。僕たちは違う世界で生きることになるから」
「紫鵬嗣もかわいそうに」
 ゼバは小さく鼻を鳴らすと立ち去った。